三菱電機鰍ヘ、1970年に排ガスを室内に出さない強制排気式のクリーンヒーターを発売しました。
このクリーンヒーター開発は、ストーブから出る排気ガスをなくしたいという要求とMHD発電の高温プラズマに関する当時の最先端研究が結びついた結果でした。
そして、その生みの親となったのは、同社中央研究所のアークプラズマ研究室のI 主任研究員でした。 I 氏の家庭では、夫人が排気ガスを苦手としていたため、住んでいた公団住宅の部屋に煙突付きの半密閉(ポット)式ストーブを設置していましたが、狭い部屋にあって設置スペースが大きく、不便なものでした。
1967年に I 氏は、家を新築するに際して排気ガスを室内に出さない暖房機器を探しましたが、当時はセントラルヒーティングしかありませんでした。しかし、セントラルヒーティングは、当時の金額で100万円以上もする非常に高価なものであり、簡単に一般家庭に導入できるものではありませんでした。そこでI氏は、世の中にそのような製品がないなら自分で創るしかないと決心しました。当時、I 氏は、従来の蒸気タービン発電にとって代わる発電として大きく期待されていた高温プラズマを用いて直接発電を行うMHD発電の研究に従事していました。このMHD発電では、燃焼が重要なテーマの一つでもあったため、これを生かした技術開発を1968年4月から始めることになりました。
I 氏は、従来のストーブは、油の気化、空気との混合、燃焼反応が一カ所で行われているが、このプロセスを分離して行えば、完全で理想的な燃焼が行えるのではないかと考えました。ある日、本社で行われた会議の後、中央研究所の計画担当課長が同席者に「2分間だけ待ってくれ」といってこの技術の紹介をしたとき、強く惹かれたのが中津川製作所のT機器技術課長でした。その結果、この開発は、中央研究所と中津川製作所による共同で行われることとなりました。そして、熱交換器を含む温風暖房機全体のコンパクト化、高効率化及び低騒音化という製品開発の目標が設定されました。しかし、当時、中津川製作所は、ガス機器は全くの未経験分野であり、都市ガスも施設されていませんでした。このため、工場でも開発に反対する人もいましたが、所長は、小型のガスタンクを購入してズラリと並べ、ガス機器の測定に必要な機器を購入しました。
一方、中央研究所でも新たな燃焼技術が開発されていました。燃焼において最も重要な燃料と空気の混合の完全化を実現するため、燃料と空気を細分化して燃焼器に投入する細分化バーナーが考案されました。また、熱交換では、MHD発電の研究で開発された燃焼生成物特性計算プログラムを利用して熱交換理論を確立し、その理論を用いて機器構成を検討した結果、熱効率90%以上のコンパクトな熱交換器を開発することができました。
中津川製作所では、これらの成果を基に1968年末に100台の試作機を作り、それを社員の家庭に設置して実証実験を行いました。これにより、開発段階ではわからなかった問題点が明らかになり、これらをクリアして完成度を高めていきました。
1969年には、4,500台を試験的に市場に投入しました。そのうち2,000台については、開発担当者や関係者が直接、使用者を訪ねて、使用状況やクレームを調査しました。
そしてこれらの過程を経て、1970年冬にクリーンヒーターは、約5万円という販売価格で本格的に市場に投入されることとなりました。さらに灯油燃料とするクリーンヒーターも開発され、現在に至っています。
出典:森谷正規 著「技術開発の昭和史」(朝日文庫)